昭和49年12月20日 朝の御理解



 御理解 第27節
 「昔から、あの人は正直者じゃ、神仏の様な人じゃという者でも、段々不幸な事が重なって、世間では、どういうものであろうと言う様な事があろうが。なにほど、人に悪い事をせぬ正直者でも、人が良いのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。」

 金光様の御信心もそれはいうなら悪人と言われる様な人でも、ね、まあ言うなら世間からつまはじきをされるような人でも、信心をして所謂御取次を頂いてお願いをすると、おかげを受けられるという信心なんです。その上例えばあの人は仏様の様な人じゃ、神様の様な人じゃと言う様な人が信心をすればもう愈々御徳を受けるでしょうね。此方の道は病気直しや災難よけの神ではない。
 心直しの神じゃと仰る。その心を言わば直しに務めなくても心が生まれ付きに仏様のような人、神様のような人であると言う事が信心になればもう愈々神様の機感に叶うのが当然の事なんです。成程世間には本当に良い人があります。美しい人があります。ね、けれども一生不幸せで終わる。まどうしたこっちゃろうか、あげなんよか人が、あげな難儀な事が続いてという人は、言う様な事は世間に沢山例のある事です。
 そこにね信心させて頂く者、とない者の違いと云う事です。親のある子とない子程の違いを感じる訳で、御座います。昨日はあの様に告別式が此処百三十畳の、御広前に溢れるような、会葬者で一杯で御座いました。しかも県会議員市長さん方、ね、または市会議員の方達。もうそれこそ夢にも思うてなかった人達までも、もう会葬して下さいました。久留米の市長さんが、奥様が見えとりましたが。
 ちょっと遅れられましてね、見えられました。私はもう裏へ下がっておりましたら、市長さんがご挨拶を申し上げたい。所が私もあの着物を脱いでしまっておったもんですから、手間取りました。その間に久留米の従兄弟が元西日本新聞に勤めておられる時の、近見さんがあのう、先輩に当たるんだそうです。ほうお前はどうしてこんな所へおるかと、いや今日亡くなったのは私の叔父でここの教会長は私の従兄弟だという。
 それからまた話が弾んでそのう、してしとられる所へ丁度私が行き合わせたんですけれども、もう昨日は会議でもう、ちょっとの時間が外せないような時だったらしいです。けれども合楽の教会長のお父さんが亡くなられたんだから、もうちょっと顔出しだけでもして御霊様にご挨拶申し上げなきゃあ相すまんと思うて出た、実は出て参りましたら、懐かしい云うならば私の後輩である池尻君と今日お会いが出来てというて大変喜んで帰られたんですけれどもね。
 もう何というですかただあのう、ただまあお付き合い出来て下さったというのじゃなくて、わざわざそういうあのう時間のいる、許せない様な事所を時間を割いてでも来て下さる。そりゃあもう私は本当に有難いと思いました。成程此処で沢山おかげを頂いておられますから、勿論そう云う事でも御座いましたでしょうけれども。秋永先生が、葬儀委員長としておかげを頂いて下さって。
 ご挨拶の中身を申し上げました様に、もう本当にお生花だけでも、とにかくあれだけでも丁度に此の御広前の周囲に一杯、もうそれこそ数えて注文した様な、立派な事で御座いましたよね。それが神ながらに集まったというのを聞かせて頂まして、本当になら愈々まあお国替えから、そしてあの告別式、そして最後の葬後霊祭。葬後霊祭なんかは惟はもう内々だけで致しますけれども、もう勿論あのお爺ちゃん達の部屋を障子を取り外しましたが、ちょっと親戚の者だけで一杯でした。
 もう代表だけでって言いよりましたけど、あのますっきりしたその中にま色々と本当に唯不思議と思わなければおられない程しの、おかげの中に告別式を終わらせて頂ましたが。まあ私今日二十七節を頂いてから改めて思うんです。もし家のお爺ちゃんが信心が無かったら、もう本当に此処にある様に、あの人は仏様の様な人じゃ、神様の様な人じゃと言うても、次々と難儀な事が起こって一生を終わって果てて行った人ではなかろうかと思いました。信心のおかげです。
 自分でも若い時から言うておりましたが、私も何回も聞きましたけれども、あのある易者が、あなたは畳の上では死ねない、運命にあると云う事を言っておったそうですね。それから母には、あなたはもう六十過ぎたらもうそれこそ、もうこの世の極楽は頂けれる人だと言って母にはにはそう云う風に言ってるんです、ああ、易者が言うたという話を子供の時から何回も聞きました。
 まあ母はまあ本当にその易者が言うた通りの様なおかげを、まあ今日も頂いておる訳でご座いますけれども、父はそう言うております。だから私は庭なんかに出てからようこけたり致しますと、もうそんな事で亡くなるのじゃなかろうかと思うたりする様な事があったのですけれども、そんな段じゃあない、それこそ有り難い有り難い、それこそ畳の上でおかげを頂きました。ね。本当に私は思うんですけれども。
 昨日も幾人もの方から本当に素晴らしい、そのうまあいうならば「経籍とか筒抜けとか」と言う様な人も、そりゃあいくらかはありましょうけれども、殆どの会葬者の方が、矢張り教会のお爺ちゃまとして、いうならばそれを慕うて下さっての、まあ告別式だったと、是は手前味噌かもしれませんけれども、そんな風に実感致しました。けれどもなら父がもし信心が無かったらぁと、思いますけれども、私共が子供の時から、勿論叩かれた事なんかもう全然ありませんが、大きな声で怒られたと言う事がないです。
 私は是は私も妹もそれを申します。だから如何にその心が穏やかな人であったかと云う事は解ります。お婆ちゃんとは毎日やかまし言よりましたけれども、それはもうそれこそもう、愛情の表現だろうと思う位にですね、この様に仲睦まじい夫婦見た事が無い私は思うんです。と言う様にその心がやっぱりあの仏様の様な人じゃ神様の様な人じゃ、というそれに当てはまる様な人柄だったと思うんですけれども、それが信心するのですから御徳を受けるはずですよ。ね。
 昨日も幾人の方からも、ご挨拶受けたんですけれども、本当に親先生の御徳で素晴らしい、親孝行がお出来になられたと、言う風な、御挨拶を受けるんです。ね、けれども矢張りなら、ああいうおかげを受けた、受けたものはやはり父でありますから。してみるとやはり、父の徳だという他に無いです。はあ親先生の御徳でと、皆さんそう言われるけれども、ならそういう、なら親先生の御徳でと言う様なら、例えばですよ、なら立派な息子をもったと言う事は、矢張り親の徳がそれだけあったからなんです。
 して見ると私、親の徳だと思うですね。私は今日何時も四時の、四時から五時までの御祈念を、させて頂くんで御座いますけれども、今日は何時もよりも二十分間遅れました。それは神様からお知らせを頂きましてね、その御霊達の挨拶をしておけと云う事で御座いました。そしてあのう母があ家内が亡くなります、あのちょっと一時間ばっかり前にちょろっとお爺ちゃんの横で休んでおった時にお夢を頂いたのが。
 もう手の平の上にもうそれこそ、可愛らしい可愛らしいその猫がこうあがっとるそうです。手の平の中で包む程しに可愛らしい猫だそうです。そん時に家内があっ今日は、寝てどんおられんと思うて、それからあの又あの、起きましたらいわゆる急性の、お爺ちゃんの体の上に、起こったと言っとります様に、猫と云う事は是は不浄というお知らせでしょう。ね。矢張りあの昔から赤不浄とか黒不浄とかと言う様な事を申しますが、矢張りそのー、矢張りその喪に服した。
 服すという間は、矢張り不浄の時と云う風に、思わなければならない。ね、けれどもその、私はどういう意味か分からなかったけれども、そういう仏様か神様だろうかという人が、信心を頂いて徳を受けた時にはもう既にそこに、神格化されておられると云う事です。そりゃ少しの可愛らしい不浄はありましてもです、もう神様がこう握り潰して下さったという感じがするんです。だから私がもう矢張りそのうお通夜の時に、あのう従兄弟たちが棺の前に、お爺ちゃんお酒が好きじゃったから。
 何時まででも飲まにゃならんもんじゃけん、お酒ば一番上にお供えしとります、コップで。だからああ云う時にまだ生々しいその御霊様のお下がりなんかで頂かれるもんじゃありません。特に私共の様な信心の神経の、あのー細かい者はね、頂けるもんじゃあないです。けれどもそれが何も引っかからずに頂けたと云う事実です、私自身が。成程もう神格化しておられる御霊様だと云う風に感じたです。
 だからこそまだ五十日祭も終わらない間に神様は言うならば、まあ私の言うなら手続きによる小倉の桂先生にも、どうぞ父が今度参りますからよろしくお願いします。福岡のまたは久留米の、または三井教会の荒巻先生には尚更の事、その事を一つ又は此処で亡くなられた、あの御霊あのう御信者の御霊様やらに、もう私今日はそのこの方にお願いしとかなければならんという方に、もう一人一人お願いをさせて頂きよりましたから、今日は何時もより二十分ばかり遅くなりました御霊様の方が。ね。
 そう言う様に例えばおかげを頂いておる事で御座います。お道の信心は例えそれが人からつまはじきをされる様な人でも、いうなら悪人でも御取次を頂けば御取次の御徳によっておかげを受けると言う事は、信心がね最後の所に申しておられます様に、信心しておかげを受けるのは別物じゃという、ね、此処に金光様の御信心の、まあ一つの特異性と言った様なものがあります。ね。
 改まらんでもいうならば、悪い人間でも御取次を頂いて神様お願いします、親先生御取次お願いしますと言うからには、おかげになるのです。ならましてやお道の信心は、日々の改まりが第一であり、本心の玉を磨くのを第一とする信心ですから、ね、私共が愈々ね、磨きを掛け改まらせて頂くと言う事によって、御徳が受けられるという信心なんです。それがそんなら、生まれ付きです、ね。
 仏様の様な人じゃ神様の様な人じゃと、人にいや「嫌味くい」と言う事をまあ、いう言う事を聞いた事が無い。私共が子供から大きな声で、なら怒られたという、まあだためしがない。それは矢張り仏様の様な人じゃ、神様の様な人じゃの部類に入るのじゃなかろうか。そういう人が信心をさせて頂くのですから御徳を受けないはずがないです。皆さん御徳を受けると言う事は。
 ただ信心したから御徳を受けるのじゃありません。愈々本心の玉を磨かせて頂いて和らぎ賀ぶ心。その和らぎ賀ぶ心を求めてですけれども、その和らいでおる、何時も喜びを持っておる、生まれ付きに。それに信心をさせてそれに磨きをかけるのですから、私は御徳を受けるのは当たり前。親先生の御徳で此の様な素晴らしい、それこそ天地が自由になられる程しのおかげを受けられた。
 と皆さんは言うて下さるけれども、ね。矢張り元は父の御徳で、矢張りああこう言う様なおかげを頂いて来たんだと言う事を、まあ思わずにはおられません。お互い一つ本気で、正直者であらなければなりません。本当に仏様か神様かと人からも言われれる位な、又自分で自分自身の心が拝めれるような心の状態をいよいよ育て、そして信心をするのでございますから、ね、
 御徳を受ける、しかもその御徳はあの世まででも持っていけれる、この世にも残しておけれるというおかげを頂く為に、本気で矢張り正直者を目指さなければいけません。愈々ね。生神金光大神を目指させて頂く信心、それがお道の信心なのですから、ね、自分の心の中に感ずる和らぎ賀ぶ心の、言わば追求であり、生神に向かっての精進がいよいよなされなければならんと言う事を感じますですね。
   どうぞ。